意識・思想・文化

出口王仁三郎「霊界物語」全体の概要

霊界物語は新宗教「大本」の教祖・出口王仁三郎が大正から昭和初期にかけて口述筆記した物語。開祖出口なおの大本神諭と並ぶ同教団の根本教典の一つ。全81巻83冊ある。(wikipedia

出典:あらすじで読む霊界物語 73頁~93頁

霊界物語全体の概要


霊界物語は全八十一巻もある大変長い物語だ。だたし巻数は八十一巻までしかないが、第六十四巻が上下の二冊に分かれ、番外編として入蒙記(にゅうもうき)が一冊あるので、冊数としては八十三冊ある。この八十一巻八十三冊は十二巻で一輯(いっしゅう)とされ、次のような輯の題名が付けられている。

第一~十二巻・・・・・霊主体従(れいしゅたいじゅう)
第十三~二十四巻・・・如意宝珠(にょいほうじゅ)
第二十五~三十六巻・・海洋万里(かいようばんり)
第三十七~四十八巻・・舎身活躍(しゃしんかつやく)
第四十九~六十巻・・・真善美愛(しんぜんびあい)
第六十一~七十二巻・・山河草木(さんがそうもく)(入蒙記を含む。計十四冊)
第七十三~八十一巻・・天祥地瑞(てんしょうちずい)(九巻)

それぞれの十二巻は「子の巻」から始まり「亥の巻」まで十二支の感銘が付けられている。たとえば第一巻であれば「霊主体従 子の巻」、第十四巻なら「如意宝珠 丑の巻」と呼ばれるわけだ。ただし本稿では煩雑さを避けるためすべて数字の感銘で呼ぶことにする。

霊界物語とはどんな物語なのか、一言で短く言うと「スサノオがヤマタオロチを言向け和す(やわす)物語」である。
第一巻の冒頭に記された「序」は「この霊界物語は(略)神素戔嗚命(かむすさのおのみこと)が地球上に跋扈跳梁(ばっこちょうりょう)せる八岐大蛇(やまたのおろち)を寸断し」云々という背通名から始まるのだが、ここからわかるように霊界物語の主人公はスサノオという神様だ。しかし一般的な小説や映画のように、主人公が最初から最後まで登場してストーリーを進めていくわけではない。
ミロクの大神とも呼ばれるスサノオの大きな慈悲を背景にした一種の「群像劇」だと考えるといいと思う。場所・人物など設定は同じなのだが、毎回主人公が変わり、ストーリーが進展していく形式になっている。
霊界物語もエピソードごとに、主役クラスの人物が変わっていく。その人数は数十人もおり、端役(はやく)も含めると霊界物語に登場する「人名」は約五百名、「地名」は約二千六百もある〈窪田英治編『神名備忘』『地名備忘』掲載データをもとに計算した〉。
それを一度に紹介することはもちろん無理なので、本稿で紹介できるのはほんの一部だけなのだが、それでも聞き慣れない人名や地名が多数出てくるので少々頭が混乱するかと思う。
そこで最初に、物語の天地人〈時代・場所・人物〉や背景となる思想について少々説明しておこうと思う。それを読んで霊界物語の世界観に馴染んでもらってから、詳細な概要を読んでいただきたい。

霊界物語は出口王仁三郎が霊界で目撃した物語なのだが、「霊界」と聞くと多くの人は「死後の世界」を思い浮かべることだろう。たしかに霊界物語はいかにも死後の世界といった感じの話も時々出るが、大半は現実界で起きたような話である。だから死後の世界の話だと思って読むとかなり違和感がある。
霊界物語の最初の数巻は神々がくり広げる神話というイメージだ。それがやがて江戸・明治期の時代劇・現代劇のような話に変わっていく。しかし基本的には太古の神代の昔という時代設定だ。それは三十五万年前とも三千年前とも書いてあるが、昔々という抽象的な意味であり、実際の年数というわけではない。
霊界と限界は相似の関係にあり、霊界で起きたことは限界でも起き、限界で起きたことは霊界でも起きる〈これを「相応」と呼ぶ〉。したがって霊界物語とはいっても、限界物語のような感じになるのである。
ただし霊界は時間・空間の概念が限界とはまったく異なり、霊界で起きた順序・場所で、限界でも起きるとは限らない。霊界物語は「予言の書」として見ることもできるのだが、「あそこであれが起きたから、次はあそこであれが起きる」などと早とちりしないようにしてほしい。
出口王仁三郎が唱える霊界の構造について簡単に説明しておく。

霊界は大きく次の三つのエリアから成り立っている。
〇天界  別名・神界
〇中有界 別名・精霊界、八衢
〇地獄界 別名・根底の国
中有界は死者が最初に訪れる世界で、そこを経由して天界や地獄界へ進んでいく。
このような三分類は出口王仁三郎以外の霊界観にも見られるが、王仁三郎の霊界観の特徴は、天界を「天国」「霊国」の二つのエリアに分け、地獄界を「根の国」「底の国」の二つのエリアに分けていることである。
なお、「幽界」という言葉も使われているが、これは地獄界の別名として使われたり、霊界自体を呼ぶ名称としても使われているので注意が必要だ。
霊界・霊魂の構造や役割については、霊界物語の複数の巻の巻末に収録されている「霊の礎(たまのいしずえ〉)という文書に詳しく記されている。また第四十七巻・第四十八巻には天界の状況が細かく描かれている。

霊界物語の最初の四巻は国祖隠退(こくそいんたい)に関する物語である。太古の神代の昔は、国常立尊という神が地上霊界の主宰神として世界を統治していた。

国常立尊はもともと地球を造成した神霊である。第一巻第二十章「日地月(にっちげつ)の発生」には国常立尊が黄金の円柱の姿で現れ、後に黄金の竜体の姿に変わって地球を修理個成する様子が描かれている。
また、太陽や月は地球から生じ、天の星々は月を母体として誕生した。つまり地球の神霊である国常立尊は、天体の先祖であり、地球上のすべての生き物の一番大本の専おおであり、もちろん人間の御先祖様でもある。そのため国常立尊は、「地の先祖」とか「国祖」とも呼ばれている。
この国祖・国常立尊は厳格で、まだ世界が未完成の時代の主宰神としては厳しすぎた。国祖に反抗する邪神が世界の神々の信頼を集め、大衆の力を背景に国祖に圧力を掛けていく。そしてとうとう国祖は主宰神の地位を追われ、隠退せざるを得なくなった。この事件を「国祖隠退」と呼ぶ。それ以降、世界は邪神が支配する世の中になってしまった。
こうして国祖は世界の艮(うしとら)の方角へ、妻神の豊雲野尊(とよくもぬのみこと)は坤(ひつじさる)の方角へ隠退することになった。それは日本列島と、地中海のサルジニア島である。
世界・日本・大本の「三段の型」というものがある。世界の段では日本列島とサルジニア島だが、日本の段では北海道の芦別山(艮)と鹿児島県の喜界島(坤)が対応し、大本の段では若狭湾の沓島(艮)と瀬戸内海の神島(坤)が対応する〈このような対応関係「相応」と呼ぶ〉。
それ以来、国祖は悪神・祟り神として忌み嫌われるようになり、「艮の金神」と呼ばれるようになった。艮の金神はまた「鬼」でもある。鬼は日本の角〈牛の角〉を生やし虎皮を腰に纏っているが、牛虎(艮)の金神をモチーフにしたのが鬼の姿なのだ。
この鬼こと艮の金神〈その正体は国祖・国常立尊〉が明治二十五年(一八九二年)に再び表に現れて出口直に神懸り、邪神が支配する悪い世の中を立替え立直して五六七(みろく)の世〈地上天国〉を建設することを宣言したのである。

国祖隠退の経緯が描かれている第一~四巻は「地の高天原」と「竜宮城」を主な舞台にしてドラマが展開する。地の高天原は世界の中心地であり、国祖の神殿がある。竜宮城では政治が司られている。さしずめ地の高天原は世界の首都、竜宮城は世界政府と言えよう。
地の高天原は別名「聖地エルサレム」とも呼ばれる。エルサレムといえば現代のイスラエルとパレスチナが首都だと主張している都市であり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地であるあのエルサレムが頭に思い浮かぶ。しかし、太古の聖地エルサレムは、現代のトルコのエルズルムの辺りにあったと霊界物語に記されている〈第三十七巻第一章〉。エルズルムはトルコ東部にあり、ローマ帝国の時代からシルクロードの交易地として栄えた町だ。
太古の世界の地形は現在とはまるで異なっており、大洪水(第六巻)を経て現在のような地形に変化した。その太古の地理を、覚えやすいように仮に現代の地名を当てて読んでいるのである。
であるから、現代に実在する地名や国名が出てきても、それが現代のその場所そのものを指しているとは考えない方がいい。「現代に喩えるとその辺りにあった」とか「その国のような役割をしていた」というように捉えるとよい。
霊界物語における世界の主な大陸や国は次のようになる。古事記に登場する地名が使われているケースが多い。

筑紫島
(つくしじま)
現代のアフリカ大陸
常世島
(とこよじま)
現代の北米大陸
高砂島
(たかさごじま)
現代の南米大陸
竜宮島
(りゅうぐうじま)
現代のオーストラリア大陸
葦原の瑞穂国
(あしはらのみずほのくに)
現代のユーラシア大陸
黄泉島
(よもつじま)
ムー大陸
自転倒島
(おのころじま)
現代の日本
フサの国現代のイラン
〈霊界物語が書かれた当時はペルシャと呼ばれていた〉
月の国現代のインド
常世の国現代のアメリカ

最も多く登場するのは月の国とフサの国だ。「紫微天界」という最初の宇宙が舞台となる天祥地瑞(第七十三~八十一巻)は別として、太古の神代が舞台となる七十二巻中、半分は現代のトルコ~イラン~インドの辺りが舞台となる。

霊界物語の主人公スサノオは、素戔嗚命とか神素戔嗚大神とか須佐之男命など様々な表記がされる。本稿では読みやすさを考えてカタカナでスサノオと表記する場合もある。
スサノオは救世主という役割である。国常立尊は地上霊界の主宰神だが、こちらは地上現界の主宰神だ。
地上限界とは人間界のことで、人間界の完成が宇宙の完成とされるため、スサノオの使命は重大である。
スサノオは別名・ミロクの大神とも呼ばれ、ミロクの世(地上天国・理想世界のこと)を成就させる立役者だ。それで救世主なのである。宇宙完成の暁にはスサノオが主(ス)の神として仰がれることになる。
古事記でスサノオは、高天原を荒らした乱暴な神であり、八岐大蛇を退治し村人を救った英雄神であり、また大国主に様々な試練を与えて立派な大人に成長させる親心を持った神でもある。霊界物語でもそのような、多彩な性格を持ったキャラクターとして描かれており、さらに、未来を見通しすべてに達観した大きな器を持った神様として表現されている。
しかし主人公であるのに、本人が登場する回数は驚くほど少ない。その変わり、スサノオの教えを宣べ伝える「宣伝使」と呼ばれる人が多数登場し、彼らがスサノオの手足となって活躍する。
スサノオは三五教(あなないきょう)という宗教の主導者だ。スサノオの導きのもと、三五教の宣伝使たちがミロクの世に向けて時代を進めていくのである。
ところで一般に宗教を広めることを「布教」や「宣教」「伝道」などと呼ぶが、出口王仁三郎は「宣伝」と呼んでいた。「宣伝」という言葉は現代では票業的なイメージが強いので、「宗教の宣伝」というのはちょっと変な感じがするかもしれないが、もともとは宗教や政治などの思想、主義主張を広めることを「宣伝」と呼んでいたのである。
英語でいうとプロバカンダだ。霊界物語の中だけでなく、大本教団においても布教者を宣伝使と呼んでいる。

霊界物語には、盤古大神(ばんこだいじん)系と大自在天(だいじざいてん)系の二つの邪神系が登場する。太陽界から現在の中国北方に降臨した盤古大神・塩長彦と、天王星から常世の国(現代の米国)に降臨した大自在天・大国彦が、それぞれの頭目である。
そこに正神である国祖・国常立尊の系統を加えた三系統の神々によって三ツ巴の戦いが繰り広げられていくのが霊界物語だ。
盤古大神とか大自在天とか国祖というのは称号であり、塩長彦とか大国彦、国常立尊というのが神名となる。
塩長彦と大国彦は邪神の頭目とはいっても、実はそれほど怖い神でない。彼らを神輿に載せて悪業を働く、悪の中枢が別にいる。それが盤古大神系の番頭格である八王大神(やつおうだいじん)・常世彦と、その妻・常世姫だ。
この夫婦が両方の邪神系を陰から操り、世界を征服していく。この夫婦の帰幽(しぬこと)後、息子と娘が親の名を襲名する(仮に常世彦二世・常世姫二世と呼ぶことにする)。この常世彦二世が国祖を隠退に追い込むのである。

出口王仁三郎は邪神の背後に「邪霊」がいると教えている。
邪神というのは、元々は正神であり、心が曲がってしまったので曲津(まがつ)とか邪神とか悪神と呼ばれているだけで、改心して心を真っ直ぐにすれば正神となる。しかし邪霊は最初から悪なる存在だ。
宇宙の修理個成の段階で、ランプの煤(すす)のような残りカスが生じた。それを「邪気」と呼ぶ。その邪気が凝り固まって邪霊になるのだ。
邪霊には三種類ある。八頭八尾の大蛇(八岐大蛇)、金毛九尾白面の悪狐、六面八臂の邪鬼だ。
八岐大蛇は政治家など社会の指導者に憑依し、社会を分裂させるような働きをする。悪狐は主に女性に憑依し、色欲を使って男性を操る。邪鬼は社会の既存の組織を打ち壊し、自分が盟主となるような働きをする。
邪な気持ちや不安、恐怖、嫉妬などの感情を持っていると、これらの邪霊が入り込み、心をさらに悪化させていくのである。
三五教(あなないきょう)の宣伝使たちは、これらの邪霊をも言向け和し(やわし)、改心させ、宇宙の役に立つような働きへと変えていく。たとえて言うなら、人の排泄物を畑に撒いて肥やしにするようなものである。一見無益なものも所を得れば有益なものへと変わる。
王仁三郎は「最初の大蛇退治(古事記神話)では大蛇を切り殺してしまったので、その怨霊が現代に生まれ変わり再び悪さをしでかしているのだ」という意味のことを述べている。
それを今度の大蛇退治では言向け和して改心させるというのである。いかなる悪も切り捨てず、世の中に役に立つものとして甦らせることが「言向け和す(ことむけやわす)」の精神だ。

もし霊界物語のテーマは何かと問われたら、私は「言向け和す」だと答える。
「言向け和す」はもともと古事記に出てくる言葉である。天孫降臨のとき、皇祖・天照大神が天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)に、地上の荒ぶる神々を言向け和して統治せよと命じた。そうして建国されたのが日本である。だから日本の建国精神とも言うべきものだ。
本稿では詳しく解説する余裕はないが、「言向け和す」とは簡潔に言うと、様々な悪――争い、対立、不安、恐怖といったもの――を、暴力的な方法で解決するのではなく、言葉で和して解決していこう、というような精神だ。
国家間の戦争はもちろん、身近なところでは体罰、暴言、パワハラ、セクハラといったものはすべて、暴力以外の解決方法を知らない人によって引き起こされる。子供を殴らなくてもいくらでも教育できるのだが、その方法を知らないので、暴力に頼ってしまうのだ。
「言向け和す」を旨として建国された日本の歴史も、現実には暴力に頼って統治してきた部分が大きい。その暴力が最高潮に達した帝国主義全盛の時代に、出口王仁三郎は「言向け和す」をテーマとして霊界物語を著し、忘れ去られていた日本建国の精神を再び世に顕したのである。
霊界物語では三五教(あなないきょう)の宣伝使たちが悪党を言向け和していく。ある意味では「言向け和す」の指導書であるとも言える。
しかし必ずしもうまく言向け和せるわけではない。頭に血が上って暴力で成敗してしまったり、失敗して逃げられたりする。そうやって宣伝使たちが少しづつ成長していく「御魂磨き」(体と魂を磨くこと)の旅の物語である。

霊界物語には大別して四つの宗教が登場する。三五教(あなないきょう)、ウラル教、バラモン教、ウラナイ教だ。宗教といっても、単一の宗教団体ではなく、キリスト教とか仏教のような広い意味での宗教勢力だ。
三五教は国祖の教えに基づく正神系の宗教である。神素戔嗚(かむすさのお)大神っが宣伝使たちを指導する。
宇宙は霊系(日、火、天、男、縦など)と体系(月、水、地、女、横など)の二大原質によってなり立っている。霊体の比率が同じで霊系を主、体系を従とするバランスの良い状態を「霊主体従(れいしゅたいじゅう)」と呼ぶ。三五教はこの霊主体従の宗教だ。
ウラル教とバラモン教は邪神が興した邪教である。ウラル教はウラル彦が教祖で、盤古大神・塩長彦を主神と仰ぐ。バラモン教はウラル教か派生した宗教だ。常世の国を支配していた大自在天・大国彦を主神と仰ぎ、その息子の大国別がイホの国(現代のエジプト)で興した。
ウラル教は利己主義、バラモン教は弱肉強食(つよいものがち)の邪教である。邪教とはいっても、価値観の偏りから生じるもので、身体に偏った体主霊従がウラル教で、霊に偏った力主体霊(りきしゅたいれい)がバラモン教だ。
それに対してウラナイ教も邪教だが、こちらは最初から人を騙すために作られたインチキ宗教で、自称救世主の高姫が教祖だ。ウラル教の「ウラ」と三五教「ナイ」を合わせて「ウラナイ」教と称している。教えは支離滅裂だが、高姫が珍妙な理屈をこねて信者おマインドコントロールしている。
三五教の宣伝使たちは、これらの信者に三五教の教えを宣べ伝えていく。だが、必ずしも三五教に改宗することは求めない。正しい神に祭り直すことで、それらの宗教を霊主体従の宗教へと立て直ししていくのである。

一霊とは直霊(直日(なおひ)とも呼ぶ)のことで、四魂とは荒魂、和魂、幸魂、奇魂(くしみたま)の四つである。次のようにそれぞれ異なる働き・役割を持っている。荒魂と和魂は経(たて)の御魂(みたま)であり「厳(いづ)の御魂」と呼ぶ。幸魂と奇魂は緯(よこ)の御魂であり「瑞(みづ)の御魂」と呼ぶ。厳瑞合一した御魂を「伊都能売(いづのめ)の御魂」と呼ぶ。

四魂本体戒律正欲
荒魂進果奮勉克
(しんかふんべんこく)
恥じる(い)
和魂平修斎治交
(へいしゅうさいちこう)
悔いる(ふう)
幸魂益造生化育
(えきぞうせいかいく)
畏れる寿(じゅ)
奇魂巧感察覚悟
(こうかんさつかくご)
覚る(めい)

一霊四魂には「五情の戒律」というものが内在している。直観は「省みる」、荒魂は「恥じる」、和霊は「悔いる」、幸魂は「畏れる」、奇魂は「覚る」だ。恥・悔・畏・覚を総合したものが「省みる」である。
第一巻冒頭に掲げられている「基本宣伝歌」に「直日(直霊)に見直せ聞き直せ 身の過ちは宣り直せ」というフレーズがあるが、まさにこれが基本であり、「改心」とか「身魂磨き」というのは一言で言うと、この直日に省みることである。
一霊四魂の部分的な概念は神道に昔からあった。出口王仁三郎はそれを一つの体系としてまとめ上げたのだ。第六感第二十六章「体五霊五(たいごれいご)」・第十巻第二十九章「言霊解三(げんれいかいさん)」・第十三巻総説などで詳しく解説されている。しかしそのままではあまり実用的ではない。
出口王仁三郎の曾孫の出口光博士は一霊四魂を科学的に研究して、生活に役立つ実践的な心理学として世に広めている。詳細は出口光著『新版 天命の暗号』(あさ出版、2018年)などをお読みいただきたい。

人は誰でも本守護神・正守護神・副守護神の三柱の守護神がついている。それぞれ本霊、善霊、悪霊とも呼ぶ。
守護神と言っても、世間一般でいう守護神とは少々意味が異なる。
まず本守護神は、人間の精霊の本体である。精霊は肉体に入り(つまり限界に生まれて)修行して、帰幽後は天界に入り天人となるのが理想である。そういう意味で「肉体は天人の養成所」だと王仁三郎は説いている。その天人となるべき精霊が本守護神だ。しかしたいていの人間は身魂が曇っており、本守護神の力が発揮できていない。そのため身魂磨きをして、本守護神が表に現われるように努める必要がある。霊界物語では身魂磨きの結果、この本守護神が美しい女神の姿で顕現するというシーンがたびたび登場する。
正守護神は、人間を善の方へ導く働きをする霊である。副守護神は逆に人間を悪の方へ導く霊だ。人間は常に、正守護神と副守護神に引っ張られ、善と悪との間で悩み苦しんでいる。
副守護神は悪霊なので、人間を「守護」しているわけではない。それにもかかわらず守護神と呼んだり、ときには「副守先生」と先生付けで呼んでいるのだが、これについて王仁三郎は「日本は言霊の幸わう国であり、善言美詞で悪霊を改心させよう…という理由で敬称を付けているのだ」と教えている。こんなところにも「言向け和す(ことむけやわす)」の精神がある。
宣伝使が悪人を言向け和す場合、その人の副守護神を言向け和すのである。それにはまず自分地震の副守護神を言向け和す必要がる。自分自身にも副守護神(悪霊)がいるのだということを忘れてしまうと、気がつかないうちに自分が副守護神に乗っ取られ、善に見せて悪をやらされる危険性がある。
本・正・副の守護神については、第四十七巻第一二章「天界行」・第四八巻第一章「聖言」・第五二巻第一章「真と偽」などで詳しく解説されているので直接霊界物語をお読みいただきたい。

霊界物語で一番多く使われている宗教用語は「惟神」である。
惟神とは「何事も神様の御心のままに」という意味だ。神道で昔から使われている言葉であり、仏教・キリスト教など他の宗教でも、言葉は異なるがその概念・精神は共通するものを持っている。
我を張って苦しむのではなく、神の大いなる御手に委ねるということだが、口で言うのは簡単でも行うのは難しい。自分に不都合なことでも受け入れていくのが惟神だ。
出口王仁三郎は惟神に対する言葉として「惟人(ひとながら)」という造語を使っている。何事も人為で解決していこうというのが惟人だ(第四六巻第一七章「惟神の道」)。
神様に任せるといっても、任せっぱなしで何も努力しないのでは困る。それは「惟神中毒」と呼ぶ(第四〇巻第一三章「試の果実(ためしのこのみ)」。神の善意に人の意思を合致させた「神人合一」というのが、真の惟神である。
祝詞を奏上した後で「惟神霊幸倍坐世」と唱えるのだが、これは「神様の御心のままに御魂が善くなりますように」という祈りの言葉である。神に救いを求める言葉でもあり、緊急時には略して「かんたま」と唱えてもいいそうだ。

天の数歌は、
「一(ひと)、二(ふた)、三(み)、四(よ)、五(いつ)、六(むゆ)、七(なな)、八(や)、九(ここの)、十(たり)、百(もも)、千(ち)、万(よろず)」
と唱える。まさに「数」の歌である。
主に病気平癒や鎮魂、魂呼びなどのときに唱えるのだが、霊界物語で宣伝使たちは祝詞と同じくらい頻繁に数えている。
これは、無限絶対力を持った神様が天地を創造し、神徳を世界に充たし、愛善の徳と信真の光明を人間に授けてくださるという神文である。(第五六巻第一〇章「十字」)。
数字ではなく、次の文字が使われている場合もある。
「一霊四魂(ひと)、八力(ふた)、三元(み)、世(よ)、出(いつ)、燃(むゆ)、地成(なな)、弥(や)、凝(ここの)、足(たり)、諸(もも)、血(ち)、夜出(よろず)」
これは天地開闢のときからの宇宙創造の順序が示されており、第一三巻解説で解説されている。

霊界と現界は「相応」していることはすでに書いたが、相応という言葉は地理に関しても使われる。
王仁三郎は次のように世界の五大陸と日本の各島が相応していると説いた。また日本は世界の「雛形」であるとも言っている。大きさこそ違うが、形が何となく似ているのだ。今ではけっこう世間に知られてきたのでご存知の方も多いと思う。(上の図表参照)。

世界
北アメリカ大陸    北海道
ユーラシア大陸    本州
オーストラリア大陸  四国
アフリカ大陸      九州
南アメリカ大陸     台湾

日本が世界の雛形だといっても、その日本とは現在の日本国の領土のことでもない。樺太・千島から台湾までの一連の島々のことである。その大部分を当時の日本帝国は領有していたので、日本は世界の雛形であると表現したのだと思う。文字通り日本(当時の大日本帝国)が世界の雛形だと解してしますと、日本領だった朝鮮列島や、日本領ではない樺太の北半分はどういう扱いになるのか等、いろいろ問題が生じてしまう。決して日本領土が世界の雛形だという意味ではないので勘違いしないでいただきたい。
この樺太・千島から台湾までの列島が、国祖・国常立尊が竜体で地上の泥海を造り固めたときの姿同様であり、国祖の神霊が鎮まる御神体だというのだ(第一巻第二一章「大地の修理個成」)。
五大陸だけではなく、細かい半島や川なども、相応する日本の地理がある。地理学上の相応と国魂学上(くにたまがくじょう)の相応があるのでややこしいが、たとえばインドのインダス川は、地理学上は静岡県の天竜川に、国魂学上は関東の利根川に相応する。(『出口王仁三郎全集 第二巻』収録の資料による)。
形だけではなく地質的にも似ているらしい。たとえば南アフリカは世界最大の金の産地だが、そこに相応する鹿児島県には日本最大の金鉱山・菱刈鉱山がある。また、インドネシアのスマトラ島は伊豆大島に相応するのだが、どちらも地震の多発地域だ。
このように見ると、日本は世界の雛形だというのもうなずける。
霊界物語では、たとえば竜宮島は現代のオーストラリア大陸に相応するのだが、それは実は四国に相応するということである。ひな形という観点で見ると、霊界物語は日本列島を舞台にした物語だという見方もできるのだ。


―――霊界物語の世界観に何となく馴染めただろうか?
ここからストーリーの背通名に移るが、最初に全八十一巻を次の三つのブロックに分けて概要を説明する。その後、巻ごとに詳しく説明していくことにする。

第一~三六巻
第三七~七二巻
第七三~八一巻

第七二巻までは、前半の三六巻と後半の三六巻で主要登場人物の行動う原理が異なってくる。前半(第一~三六巻)の行動原理は己の欲望だ。不可思議な神力を持つ玉(宝珠)がたくさん出てきて、執着心の強い人物がそれを手に入れるため創造を巻き起こす。他の人物はその騒動に巻き込まれる形で動いていく。
後半(第三七~七二巻)の行動原理は神から与えられた使命だ。玉ではなく国家権力をめぐる争いになる。人々を救済する使命を与えられた宣伝使たちが、使命感から動いていく。
第七三巻以降は天祥地瑞(てんしょうちずい)と呼ばれ、それまでとは舞台がガラリと変わる。第七二巻までは太古の神代の物語だが、天祥地瑞は宇宙が誕生したばかりの原書の世界「紫微天界」が舞台となる。神々が「言霊」だった時代の物語だ(前項図参照)。